昭和五十六年一月二十三日 朝の御理解
御理解 第八十一節
氏子十宝の阪を九里半登っても安心してはならぬぞ十宝を登り切って向こうへ降りたらそれで安心じゃ気を緩めると直へ後へもどるぞ
後へもどると云っておられる。結局成就しないという事ですよね。いつまでたっても堂々まわりという意味なんです。それを登りきっておかげであり、又は力でありお徳であります。
だから気を緩めては駄目です。やっぱり構えを作ったその姿勢をくずしてはならない。本当に切角合楽に御縁を頂いた。合楽というお徳の船に乗せらせて頂いた。
そしてこういう信心をさせてもらいこういうおかげを頂いて行けばお徳が受けられてしかもそのお徳はあの世にも持っていけこの世にも遺るという程しの有難いものだというて、又は皆さんが聞いて分かっても切角信心が進み切角信心が分かり、切角お徳の受けていけれる手立てを聞いてなら日常生活の上にそれを頂き表しておるのです。けれども、気を緩めると又ものへもどってしまうというような事になるのですから、一つそれこそ誰かが云うたあの歌の文句じあないですけれど「一直線」です。
お徳を受けるという事に一直線、おかげを受けるという事に頂くまではというこの一直線の信心がいるんです。やれやれがあったり迷いがあったりしたんではだからおかげは受けられません。昨日でしたか久留米の福垣さんここでお届けをされまして、今度息子さんが結婚する事になったんです。どっかあちら二日市かなんかあちらの方から貰われる。そのお話しがまとまりました。それでお願いをしてまあ日取りとかいろんな結婚の打合せといったような場合にも兎角先方は御信心が無いのだから日柄を云われるかもしれんし、いろいろ自分達の都合を云われるかもしれんかも分からんけれども、もう兎に角、向こうさん本位でいきなさい、向こうさんまかせでいきなさいと。こっちがどうこうと云わずに「それでいいですよ」と云うように申しておりましたら、二、三日前向こうの結婚式の式場の下見をあちらのお母さんと行かれた。
それであちらの料理むきやら何やら引き物なんかの事から相談があって、今度はもう新郎側の稲垣さんの方で一切を費用を持たれる事になっておったそうですから、向こうとしては、ただ見に来て下さるだけでよかったんですけれども、見ていかれる中にいろいろと例えば引物なら引物がこりあ小さすぎるからまちっと大きくして頂くといいといったような話しが出てきたとこういうのです。いうならばそのもうこちらへまかせてもらっとればいいのだけれども普通でいうならまあかちっとくる所でしょうけれどもね。そこに稲垣さんの信心が生き生きといつの場合でも息づいているというか、受け止めていかれるのに私はいつも感心するですけれども。はあここだなあ親先生がおっしゃった所だなあと思うたから、「そうですね」と有難く受けられたというお届けがあったんです。
そしたらね『次々とあの昔こう麩、麩ですね。鯉の餌にする麩。あの竹輪のように穴のほげたあれをこう頂くんですよ。私はそれを思わせて頂いてね。もしそういう時に例えば向こうがそげん言いよんなさるからああそうですかと口では云うても心でまあ横柄なおっかさんじああると思うたらもうおしまいなんです。そうですなあ、ここが日頃頂いている教えを生かす所として受けた時にはじめて鯉の餌になるのです、それが。鯉というのはここでいつも頂きますように、お徳というのです。合楽におかげ頂いて神様のまちがいなさをいろいろなおかげの上から感じさせて貰うていよいよお話しを頂けば頂く程この世には魂を清めに来ているのであり、この世にはそのお徳を受けてあの世にも持って行い子孫にも遺るようなおかげの頂ける手立てやら道を習うんだと先ず知らなきぁなりません。
そしてなら、お徳を受けていく、それが成就の為の信心修行をさせて頂いて切角なら小さいまあ鯉を頂いたとしましてもね、それをいよいよ育てていく、大きくしていくという働きがいつもあっとるわけです、ね。
だからそれをなる程、成りゆきを尊ぶとか大切にするとか云う事はいかにそれが鯉を育てていく、徳を育てていく事になるかと云う事が分かりますと同時に、ならそれを反対に他んこつは成りゆきを大事にするけどこの事だけは大事にされない、他んこつは頂けるけれどもここは黙って治めるわけにはいかんといちいちそういう事であったら切角の鯉の餌が元に戻ってしまうという事を昨日稲垣さんのお届けをさせて頂いて感じたんです。お互いずいぶんお徳が育っていく為の働きを神様が下さってあるのにそれを無駄にしておるような事が沢山あろうか。いうなら九里半登ってもちょっと油断したために又元所さってもどってしもうとるといったような峠を越したなりにお徳を頂く触れる事なしに終わってしまうというような人がどの位多いか分からない。という事を思いますですねえ。まあこういやそれこそ簡単なようですけれどもその内容というものは、そこまでのおかげと頂かれる所までねえいよいよ、成りゆきをただ我慢して受けるでなくて有難く受けていくという、そこにいよいよ神様の間違いなさ、いうならば絶対の不動の心というものを鍛えた上にも鍛えた頂いた上にも頂いていかなきぁならんのです。
昨日研修のちょっと前でした、梶原佳代先生がここへお届けに出てまいりました。今日御祈念中にこういうようなおしらせを頂きましたと、「私と秋山美枝先生と二人でパンを買いに行っておるおしらせでした」とこういうのです。いわゆる先生の奥さん同志です。二人でパンを買いに行っておうた。それで、私は申しました事でしたけれども、これは、佐藤宿老という教祖の神様の御時代に教国の設立の為に大変御苦労下さった先生です。その佐藤宿老の御教えの歌の中に、「靴なくば跣はだしで歩け道の為飢えて飢えざる糧つくりつつ」という歌がある。靴なくば跣で歩け道の為飢えて飢えざる糧つくりつつ、「糧求めつつ」とはおっしゃっていないのだと、パンを買いに行けちゃ云うちゃござらん。例えば主人がお道の教師としていたなら教会なら教会をまあ布教に出るとする。それこそ神様を確信して疑わない。わが家のお賄まかないは神様からして頂くんだと。
例えばこの頃のビルグイからの手紙にしてもです。御神飯の、あちらででは、どんなふうになっておるのかしらんけれども、やっぱりその御神飯を炊くこのお米だけは絶対買はないと決めておる。子供が玉子御飯を作ってくれというてせがんだ。所が、お米は二、三合しかなかったけんで御神飯ありあ炊かにあんからね辛抱しなさいち云うた。そしたら「お母さん、親先生にどうしてお願いせんか」ち云うたら、ほんなこつのち云うてから早速親子で親先生にお願いさせち頂いたら、ほんとうに手の平返すようにお米のお供えがあったという。子供にせがまれて、ちょっと御無礼してから米一升買うてきとこかという所にはねえそういう不動の信念というような不動のものが生まれて来ないです。成る程神様がおかげ下さるんだなあ、神様のおかげ頂かなければ又力にならんです。
金光様の先生というならば奥さん達二人がね、まあパンを買いに行っておる。主人の信心の足を引張るような事しちゃならん。主人がその気で神様へ向かうならば家内も引張るのじあない、そこから後押しを、いわゆる後祈念が大切なのだ。教会の婦人、教会長婦人というのはその後祈念、先生の祈りが成就しますように、沢山の信者の、信者のいはば願が成就しますようにという、その為にはその位の修行は出けなきゃ出けない。というようにね、そういうまあ考え方では素人が考えたらこんなにきびしい事はないような、に思います。お金がないのに買うこつも出けん、ただ神様だけをあてにしてから、日乾しになったらどうするか。そのどうするかというところが今日の御理解じあないけれどもままよという心を出さなければという事になるのです。
そういうときにそんなら、あのくり返しくり返し失敗しようたらいつまでたっても絶対の神様を頂くことが出来ない。私共はだんだん信心の稽古をさして頂く中にここははあ神様が力を下さろうとする働きだというふうに感じ取らせて頂いてそれこそ辛抱しぬかせてもらはにあならんとこは辛抱させてもらはにやならない。きつかこつけれども、それこそ それをこれが鯉の餌だと思うたら有難いとお礼を云うて頂くより外にないというような信心をお互い身につけていきたい。靴無くば跣で歩め道の為飢えて飢えざる、いわゆる限りないおかげの受けられるいわゆる無蔵におかげの受けられるお徳を受けつつということなんです。そういうなら飢えて飢えざる糧求めて、という事になったらお徳にやならんのです。もうこうやって頂きますと大変きびしいようにありますけれどもそれを日常茶飯事の中に稲垣さんのお届けである、お話しであるようにです。
そのまあ時々に、これが日頃頂いている教えはここで生きるかさなきぁならんと合掌して受ける時にそれは鯉の餌になり信心のないものはと云いながらどげな我慢でん云わっしゃると、云うたり思ったりしておったらその餌を頂かなかったという事になる。
いつまでもそれこそ9里半まで登っておっても峠を越すとも十里の阪を上りきる事も出来ない。この神様はそれこそ一足でも無駄にはさせんと仰せられるのですから一足でも無駄にならんような生き方を身につけさせて頂き後もどりするような事になってはならない。昨日丁度四時の御祈念には入ろうとする前でした。善導寺の原さんが昔参って来た事のある方だそうですけれども。学校の先生をしてある方のお導きをして参って見えた。勿論その方の名前を書いてお届けされたその方も勿論お初穂をここにされた。
だからそのお届けをさせて頂いてすぐ私は四時の御祈念に入らせて頂いた。そしたらあん、あの今は居るか居らんかしりませんけれど、原節子さんという女優が居ったでしょうが、あの原節子さんを頂くんです、原節子という女優を。
それで私ははあっと思うてから、ほんに例えば勿論原節子はなかったけれども例えばお参りをして来たが最後は私はおんぶしてきておる子供でも名前を聞いてお届けするんです、必ず。それに、うかつじあったなあ私が忘れとったから神様がお気付け下さったんですよね。原節子が参って来とったじあないかちというわけですよ。それで又ここへ下りてからすぐまあ原さんのお届けをさせて頂いてその話しを私が目がうすかけんで後の方へおんなさるのが分らじあったですたい。もう御祈念すんでからだからもうおんなさらんち思うちから原さんのお初穂しちぁなかったばってんこうだったという話しをしたら後におってそれを聞いておられた。
で又改めてほんとうに不行き届きの事ですというてまあお初穂を包んで又お届けなさいましたけれども、例えお初穂があろうがなかろうが神様は見のがしなさらん。ちぁっとお届け帳にのるという事は一歩でも無駄にはさせんとおっしやるのが神様の働きの中にあるという事を感じます。ですから一歩でも後ひざりをするような事があってはならんという構えをね作っておきませんと、お礼を申し上げねばならん切角そこに云うならば徳が育っていくいうなら鯉の餌を与えられておってもそれを頂かんずにいますという事は自分も損なら神様もいうならばお淋しいだろう。切角お徳を頂きたい頂きたいというて参ってきよるけんで力を頂かせる為にお徳を頂かせる為にその餌を下さるのにそれを頂こうとはせずに不平不足でそれを返していくというようなことがあっては私は今日は本当に目のつまった信心とはこういう信心じあないだろうかと思うんです。
ただ油断をすると後へ戻るぞとだけ漠然と頂けば、ほう、ほうそうですねと聞くだけじあなくてその内容たるものは今云うようにいつも私共が一歩一歩前進前進いうなら頂上を目指し又は峠を越さして頂く為の歩みを進めているわけなんです。それがいうなら行きつ戻りつという事になる事がちょっとした心の構えがなかったばかりにいつもいつも堂々まわりの信心になってしまっておるといったような事があってはならんという事を今日は聞いて頂きました。
どうぞ